7月22日に千里山コミュニティセンターで実施した映画「こんばんは」上映会。映画ももちろんすばらしかったんですが1回目と2回目の上映の間に行われた友岡雅弥さんの講演。聞き逃した人もいらしたと思います。残念ながら当日来られなかった人もいると思います。
講演、全文アップします。
館長が録音データーから起こした原稿を友岡さんにチェックしてもらってます。ぜひ、多くの方に届けたいと思います。

それではどうぞ。

映画「こんばんは」上映会 友岡雅弥氏講演

(7月22日(日)に実施された講演の録音をもとに編者が再構成したものです。)

いい映画でしょ。心が軽くなるような。

映画の舞台の東京の文花中学校、全国の夜間中学校の事務局がここにあります。東京と大阪とを比べると、大阪の方がはるかに一校一校 の規模は大きいです。

それでは、夜間中学校の話をしたいんですけれども、先ほどの映画では全国で35、と出ていましたけれども、残念ながら今32かな、減ってます。3年前に横浜市が4校あった夜間中学校を1校にしましたので。大阪でも5年前に大阪府、大阪市が夜間中学校全廃をもくろみました。そのはずだったのですけれど、そのことをもくろんだ方は市長をおやめになったので、無事でした。大阪には全国で一番大きい規模の夜間中学校があり、全部で11校なんです。一番大きいところでは昼間の生徒よりも夜間中学の生徒の方が多いぐらいのところもあります

(スライドを示しながら) これは、大阪の守口の守口第三夜間中学校の看板です。今は、小中一貫校になり、名前変わってますが。

「ひらがなから勉強できる夜間中学」「入学はいつでもいいよ」「時間は夕方5時40分から8時40分まで」「授業料はいりません」そういうことですね。

(次のスライド) 生徒さんの作品がこういうふうに… ちょうど、橋下さんが「夜間中学を全廃する」と言ったそのときに、この作品作ったんです。夜間中学校の生徒さんがね。「夜間中学校は私たちの大切な学校です」と、そういう写真です。

(次のスライド)これは、ある方の勉強のノートです。この方は80何歳かの日本人の生徒さんです。84やったか5やったか、いろんなものを書いたり教科書を写したりしている。必死になって勉強してる。これ漢字。これを見ながらノートに文字を書いていく。本当にみんなまじめ。真剣です。

また、9月に、大学生さんたちを連れて守口の夜間中学校に見学に行くんですよ。今まで、何度も行きましたが、大学生さんたちは行った前と行った後は全然違う。何というか、生きる姿勢を変えられるというか、目の色が変わりますね。しかも、その、目の色が変わったのは、ずっと続いてますね。夜間中学に見学に行く前は「大きな外資系企業に入って」と言っていた人もいましたけれども、夜間中学に行ってしばらくたったら、「社会福祉士の勉強を始めました」って。そうやって実際、社会福祉士になって世の中の様々な困難を抱えている人のケースワーカーになった。

そういうことで、夜間中学校は学びの場でもある。それは夜間中学生さんたちが学んでいる、ということだけではなくて、そこは学ぶということはどういうことか、というのをみんなが根本的に考えることが出来る場である、ということです。

ええと、「高校生になりたいから、一生懸命漢字でがんばります」これは、中国の中国残留孤児の人のお子さん、いや、お孫さん。中国残留孤児で、中国から帰ってきましたよね、そのお孫さんの文章です。

(次のスライド) これ、「えんぴつポスター」っていうんです。鉛筆の形をした用紙に自分の言いたいことを書く。これは全国32の夜間中学校共通でこういうのを書きます。

「勉強することで毎日の生活、仕事にはりも出て大変ありがたく感謝しております」ひさ子さん。「私は物忘れがひどいので、忘れないようにしたいです」これ書かれたのは80を超えた高年齢の方ですけれどね。「勉強は死ぬまで。よく言ったもので、なんぼ学んでも満足できない」「家族みんな健康で毎日楽しく過ごせますように」

これは別のところの「えんぴつポスター」です。「お金で買うことが出来ない宝物は勉強」「優しく教えてくれる東生野中学校、大好き」「来年3月で卒業。寂しいような嬉しいような」「たくさんの知識をありがとう、感謝します。」「夜間中学校に来て新しく思ったこと。人間は死ぬまで勉強するものやと思いました。今からでも死ぬまで頑張ります」

(次のスライド)夜間中学で忘れてはならない人がおります。高野雅夫さん。で、こっち側が大阪の夜間中学の父親、というか創立に尽力した白井善吾さん。大阪においてはこの二人、高野さんは全国ですね。今から、高野さんの話をしようと思います。

高野雅夫さんは戦災孤児です。戦争でお父さんが死んで、お母さんは行方不明になりました。で、北九州に、記憶の一番古いとこ、覚えてるとこは、北九州におった。でも、名前は全然知らん。自分はなんという名前なのかも知らん、という幼年時代を送り、ストリートチルドレンですね。靴磨き、かっぱらい、いろんなことをしながら転々と、北九州から、流れて、東京の山谷、山谷へ行った。「高野雅夫」という名前も、だれか赤の他人からつけてもらった。

そうしたら山谷の、山谷ですね、釜ヶ崎、寿町、山谷、日本三大どや街の一つの山谷。山谷に行ったときにそこの「ばた屋」。ばた屋、わかります?屑を拾って生計を立てている在日コリアンのオッチャンに拾われて、そしてご飯を食べさせてもらって、一緒に生活をした。そうしているうちに、そのおじさんが、在日コリアンで、「自分は日本語が、読み書きができないからすごく苦労をしたぞ。だからお前は日本語の読み書きができないといけない」と言って、それでばた屋で拾ってきた辞書で、まず、ひらがなを、「たかのまさお」と教えてくれた。

自分の名前が初めて書けた。

それから漢字の辞書をばた屋のクズからひらって来て,漢字の辞書で漢字も勉強した。それである程度の字の読み書きができるようになって、山谷のちょっと北側に荒川第九中学校というのがあって、そこで、夜間中学校がある、ということでそこへ入学した。

ちょっと話は客観的な歴史の話になるんですけど、1955年、1955年の段階で日本には夜間中学校は全部で約90ありました。多かったんです。なぜかというと、その10年ほど前まで戦争があった。その間、勉強ができなかった。戦争が終わっても焼け野が原で学校もない。いわゆる初等教育を全く受けることのない人たちがいっぱいおった。何10万人もおった。それで先生たちが手弁当で夜間中学校を日本中で約90作った。にもかかわらず、その約10数年後、1966年だったか、国は、行政管理庁が、夜間中学校を全廃だ、というのです。なぜかというと、「日本は教育制度が完備していても文字の読めない人間はない」と公に発表しているから。(だから)夜間中学があったらまずい。

ということで夜間中学全廃。そのはずだったんですけど、この、夜間中学校で文字の読み書きができるようになって24歳で荒川第九中学校を卒業した高野さんがおこって、いかって、「夜間中学校をつぶすな、」という全国行脚を始めたんですね。それで、自分たちでお金を集めて「夜間中学生」という16ミリの映画を作った。それで、高野さんは、こういう格好で(スライドを示す)、こういう服で日本中回ったわけです。

(次のスライド)今の高野さんですね。回った先から、「今日はこんなことがありましたよ、今日はこんなことがありましたよ」って出身の荒川第九中学校に、毎日、日本中の行ったところからハガキを書いたんですよ。毎日。430何通。

これを、ある時、「展覧会しよう」「高野雅夫のわらじ通信」という、わらじを履いて回ったように、日本全国を(自分の足で)歩いて行った、ということで、「高野雅夫のわらじ通信」ということで「展覧会して全部貼り出そう」ということになったんですよ。そしたら、何枚か無かったんですね。じゃあ、どうするか。空いているな、という話になったけれど、それが復元できた。

なんで復元できたかというと、高野さんはこれを、荒川第九中学校にハガキを送ると同時に、自分のノートにも同じ文字で写してるんです。だから、無かったやつは、このノートに、何月何日、このノートから復元印刷したやつ(で埋めることが出来た)。だから2倍の文字(数)があるわけ。

合計94万字、94万字の文字を高野さんは日本中、映写会をやりながら書いたんですね。ついこの前まで日本の文字を、読み書きができなかった青年が、94万字の文字を書いたんです。毎日。ね。それだけじゃないですよ。これ、高野さんの日記。12月の1日は、どこ行った、どこ行った、どこ行った、どこ行った、どこ行った、どこ行った。ね、これを毎日の日記、どんなことをやったか。さっきは、どこ行った、どこ行った、どこ行ったですけれど、こっちはどうしたか、何考えたか。(スライドを示し)「自ら、権利を主張しない限り誰も、何も守ってくれない」「釜ヶ崎、訪問」「公務上出張で不在」。そういうふうなことで、日記ですわ。この、全国行脚で、おそらく200万文字以上はあるんちゃいますかね。高野さん書いてるわけです。どこまで、文字への強い執着があったのか。日本語の文字の読み書きができなかった少年、青年が命を削る思いをして、200万字以上の文字を書いた。

先ほども言いましたけど、守口の夜間中学ですけど、一番若い生徒さんは23歳、日本人です、小学校の3年生の時に、あの、お父さんいない、お母さんだけ、お母さんが重い病気になってお母さんの看病ときょうだいの世話で学校へ行かない。小学校行かなかったら中学校いけない。ということで文字の読み書きができない。そういう子が守口の第3中学校、いまは、守口さつき学園、という名前になってますけれども、そこの一番若い子は23歳です。

そういうことで高野雅夫さんはこういうふうに命を刻み付ける思いで映写会やって、ハガキを書いて、日記を書いたり、交渉して、その姿を見て、日本のあちこちに夜間中学校の灯がともったんですね。大阪は、まず第一号は天王寺中学、天王寺中学が第一号で夜間中学校ができました。今も、釜ヶ崎の話が出たんですけれども、高野さんは全国行脚を終わって、釜ヶ崎に住み着いて、そこで日雇い労務をしながら、仲間の日雇い労働者の人に、大阪に夜間中学校を作れ、というビラを撒いた。そのビラの数が3百万枚。3百万枚のビラを配って釜ヶ崎のオッチャンらと協力しながら3百万枚のビラをまいて、天王寺夜間中学校をはじめとして、大阪には日本の3分の1の夜間中学校ができるようになったんです。という、高野雅夫さん。

釜ヶ崎、でいまちょっと思い出しましたけど、釜ヶ崎の日雇い労働者の支援をやってて、「紙芝居劇むすび」というのをやってるんですけど、11年前から。それで、面白いんですよ。ひとり、やっぱり文字が読めない人がいます。その人は沖縄生まれ。「十・十空襲」という沖縄に鉄の爆弾の雨が降った空襲のさなかに、防空壕の中で生まれた。それで何人か幼児がいたそうですけど、その時に大きな声で泣いた幼児はみんな殺された。なぜかというと、泣き声でアメリカ兵にばれる、ということで家族は殺さないかんかった。でもその人は防空壕の中で生まれてぐったりしてた。それで助かった。泣き声をあげなかったので助かった。だけども、お父さんは死んじゃってお母さんはしばらくして栄養失調で死んで天涯孤独。学校へも行ってない。それで、釜ヶ崎にやってきて、そっから、なんと、アルジェリアに8年間、サウジアラビアに6年間。クウェートにまた何年か。ずーと石油のパイプラインのパイプを敷設する労働者で行ってて、その人は日本語の読み書きは全然ですけど、アラビア語の読み書きはできる。フランス語もできる。英語もできる。日本語の読み書きは全然できない。そういう人が一人おります。面白い人。

(次のスライド)前川喜平さん。前の文部事務次官。前川さんが、「ぜひとも、先ほどの高野雅夫さんに会いたい」ということで、高野さんに引き合わせをした時の画像です。

この前川喜平さんが、がんばっていただいて2016年11月に「多様な教育機会を与える法律」というのができました。夜間中学校は実は、例えば、外国籍の人も来る、ADHDの人も来る、それから年齢関係ない、いろんな人が来る。不登校やった人も来れる。そういう風な、様々な人に、学びを与える場として役割を果たしている。しかも、大事なのは「形式卒業生」。不登校で学校に行ってない。でも、温情でというか、要するに卒業免状は、卒業証書は出そう、という小学校、中学校の温情で、全然、文字の読み書き、算数、数学はできないけれども、ちゃんと卒業はしてるという形式卒業者が数十万人日本にはいます。けれども、その数十万人は卒業はしている、一応卒業証書はあるけれども、実際は読み書きの能力もない。それで、そういうひとを、教育を与えるのも、夜間中学校を中心に、やっていこう、という流れを前川さんが作った。

で、夜間中学校の面白い話をしますと、ある授業に見学に行った時のことですけれども、国語の授業で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」をやってたんですね。カンダタという悪人がおって、上から仏様が蜘蛛の糸を垂らす、というやつですね。で、先生が、「今日は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をやります」といって、黒板に書く。「芥川龍之介作」と。「芥」って「茶」という字に似てるけどちょっとちゃうで、とか言いながら書いていく。そしたら、生徒さんが「この人の息子さん、確か作曲家やで」そしたら別の生徒さんは、「ベルリンで賞とった人や」また別の人が、「主演は京マチ子やったかな」ということでその話で、十数分、場が持った。先生は、生徒さんの言っているのをメモしている。先生が生徒さんから学んでいる。教育というのはこういう風に双方向的やな、ってすごく感動したんです。つまり生徒さんが、いわゆる学校教育のプログラムから外れたけれども、人生経験は先生以上にある。特に、戦争体験はリアルな戦争体験を持ってはる。だから、むしろ先生が教わって、先生はそれで授業の内容をさらに豊かなものにする。そういうふうなことがあって、ああ、本当の学びというのはこういうことなんやな、と私、すごく感動した覚えがあります。

で、1学期、2学期、3学期があって、学期の終わりには、生徒集会、いうのがあるんですよ。生徒集会、すごく面白い。参加も自由です。だから、学期の終わりで、全て終わって、明日から夏休みですよ、明日から冬休みですよ、明日から春休みですよ。最後の授業を終わって、「今から生徒集会をしますよ」。出席は自由です。普通の中学校やったらどうですか、ほとんどみんな帰ってしまう。出席は自由ですわ、それが、大きな大教室にほぼ全員来る。それで、発言ばっかり。「生徒会、おかしいんちゃうか」「ちょっと今年入学者は少なかったけど、それで、みんなで守口の駅の近くでビラ配りしよう。」で、結局2時間近く、生徒会が、紛糾じゃなくて積極的な意見、で盛り上がったんですね。さっきの授業も一緒です。おしゃべりはします。芥川龍之介の子どもは作曲家やで、ベルリンで賞とったで、と、おしゃべりはしますけれども、それは私語ではないんですね。わたくしの言葉ではない。その授業に、肉付けする、授業をより豊かにするもの、ですね。おしゃべりはするけれども、私語ではない。公的おしゃべり。先ほど言った、生徒会でも、みんなが、自分のことじゃなくて、新しい入学者を増やすためにはどうしようか、そういうのをどんどん出す。そういうふうな、不思議な場所が夜間中学です。

みなさん、一度は、大阪に11あります、どこかに、見学に行かれたらいいのではないかな、というふうに思います。とってもすごく、人生変わります。そういうことで、夜間中学校のリアルな姿、と夜間中学校を唯一の希望として入学し、国によって潰されそうだった夜間中学校を復活させた人の、高野雅夫という人のことについてちょっとおしゃべりしました。

 

司会 ありがとうございました。せっかくの機会ですので、夜間中学についてでも、何かご質問、ご意見のある方がいらっしゃいましたら、お受けしたいと思います。

質問者 ありがとうございました。私も教師なので、よく共感できる点がたくさんあったんですけれども、なかなか今、こういう人権とか福祉とか教育だとか平和っていうことを、なかなか、教員だったらもうちょっと、勇気を持って話をすればいいんですけれども、教員も結構萎縮するような雰囲気がある、と勝手に私が思い込んでいるのかもしれないですけれども、個人として大きなことはできなくてもなんかできることはないかなって思っているんですけど、教員であるものに、アドバイスと言ったら変なんですけど、いただけたらな、と思います。

友岡  ええっと、まず、残念ながら教師というのは今すごく忙しくて、対子どもさんに忙しいんじゃなくて、対教育委員会教育長という、上に書類書くのに忙しくて、大変ですけれども。

一つアドバイスできるのは、実際の現場に行くこと。広島の平和教育で頑張っている人に聞いたら、やっぱり、自分が長年、被曝者と直接触れ合うことをしていない教師が、本で読んだことだけを教壇で喋ったら、子供は、「平和教育?ええ?」と、平和教育アレルギー、むしろ平和教育から離れて行く。それが、ずうっと、たとえば自分の家族に被爆者がいたり、あるいはいないけれど、積極的にそういうふうな人と日常的に関わっている経験をしている人は、普通の言葉やけれども、言葉の節々に、端々に、重さがある。そこが、やはり子どもには刺さって行く。で平和教育とか人権教育と言っても、まあ、言ったら同じ話。リアルな言葉ではなくて、生活の言葉ではなくて、どこかから借りてきたみたいな立派な話をしてしまう。で、そこに、風穴をあけることが大事で、そのためには、やっぱり自分がなんかの「具体的現場」を持つこと。なんでもいいですね。

で、今、僕も子どもの貧困関係のNPOの理事をしてるんですけれど、毎週一回、20食、子どもらにご飯作っています。そのなかで、なんというかな、「どんなメニューがええやろ。寄付してもろた野菜は何がまだ残っていたかな、冷蔵庫は何から順番に先に用意せなあかんかな」ということを考えて20食作るんですね。で、そうすると、「お母さん大変やな。シングルマザーさんなんかもっと大変やろ。ダブルワークして、メニュー考える間もなく、ばあッとご飯作って、子どもに食べささんとあかん。シングルマザーさん大変やろな」ってそこにリアリティを持って、感じることができるようになって。喋るのも、ほんまに具体例をもってしゃべれるようになる。そういうことやと思うんですね。何か、自分が携わる具体的現場を持つ。そしたら、教師の言葉、まあ、行政もですけどね、その言葉にリアリティが出てくる。行政文書読んだら、どれ見ても一緒ですよね。で、そこへちょっとこう、血の通ったというか、体温を感じるような言葉が出てきてほしい。体温を感じるような言葉は自分が体温を感じてへんかったら、出てこない。だから、体温を感じる場所に月一回でも週一回でも行かれたら、一年ぐらいたったら、変わってくる。と思います。

 

司会 ありがとうございます。他にどなたかいらっしゃったら。

質問者  どうもありがとうございました。昨日、テレビを見ていたら、日本の教育と外国の教育と違うところ、大きな違いがある、というところですね。義務教育、では、日本では、落第、 留年がない、他の国では、ヨーロッパとか南米、なんかでは、単位が取れなければ、単位といいますか、義務教育でも留年があるんだ。日本は、全然、誰でも卒業できてしまう。ということを聞きまして、先生の話では、形式卒業者、何人ぐらい、日本ではいるのか。

友岡  実際、形式卒業者というても、1960年代に形式卒業して今60代、という人もいますよね、今、去年、形式卒業した人もいますよね、100万は行けへんけれども、100万に近い人数はいるやろう、と言われている。

質問者  総人口の中でかなりの割合で

友岡  そうです。ま、100万は行けへんけれども、80万か70万ぐらいかな、ま、200人に一人とか。それでいうたら、例えば小学校のアルバムを見ていただいたらですね。だいたい中学校、ま、昔のマンモス中学で、一学年が500人、600人、だいたい、卒業アルバムの上に(別に撮った写真が)、だいたい1クラスに一人か二人、ありましたね。だからそのぐらいの、頻度、です。だから、それもすごい、社会にとって損失ですよね。もう一回、学校行っても、「なんやあいつは、学校行けへんかったから、もう一回行っとるぞ」とか馬鹿にされないように。留年しても、「なんやあいつ留年しとるぞ」とか言われないような社会を作って行ったら、その自分の立場に合わせて、ちゃんと、得るものは得て卒業できるようにする。社会側の問題て大きいと思うんですよ。そういうのは全部許して行くとか。長い目で見て、それで受け容れて行く。許す方が早道、早回りです、と思います。ちょっと若い人に、「2、3年、回り道でも、今頑張ってるからええやん」というふうな、目を持っているならば、もっと早く日本の問題は解決するんじゃないかな、と思います。僕らの問題ですわ。

 

司会  他にございましたら。

質問者  ちょっとわからないことがあって質問したいんですけれども、今、夜間中学校はどんどん外国籍の人が昔以上に増えてきて、やっぱり外国の人が多くなると、日本語を、書く文字ももちろんなんですけれど、日本語を学びにきている、という人もたくさんふえています。そういう中で、周りからの雑音というか、周りからは日本語学校じゃないんやから、とか、懸念する声が聞こえてきています。そういうことに対してあまりいいように言わない声も聞こえてくるんですけど、それすごく心配なんです。ちゃんとそういう人たちにも、夜間中学校、どんどんきてくださいね、という感じで安心して学んでもらえるような感じで、今後も進んで行きそうですか。

友岡  それは規模の問題というのが大きく関わっていて、守口第三夜間中学校はコンピューターの時間があるし、英語もあるし、数学もあるし、あと、音楽もあるし体育もある。もちろん1日6時間授業じゃないので、毎日英語とかそんなん無理ですけど。それは、大きい学校では可能ですわ。でも小さいところは、実際、ほぼ、識字教育中心になっていて、それから先ほど言った、中途退学者、ほんまは数学勉強したいねん、そういう人が行きにくくなっているのは事実。ということはどういうことかというと、それが、今の規模だからですわ。ニーズはあるんです、ニーズはあるねんけど、ニーズに対して、ちゃんと共有して、クラス分けをして、まず、日本語の読み書きをするクラス。次には、数学とか英語とかもありますよ、というクラス。そういうふうな感じにすればいいのに、できていない。それは、行政側の責任ですわ。それは決して、夜間中学校の責任ではなく、ニーズに合わせた教育を提供せんといかんのは誰やろう、という話なんで。そうすると、社会の底上げは絶対(できる)。実際上から、金を投資するより、もっとこう、たとえば全体を底上げしていく、そういうことになると思います。

実際、そういう懸念の声は、いっぱいあってそれが今一番の問題の一つです。先ほど言ったように形式卒業の人も、見る、という話になっているので。で、文科省の、この多様性教育、多様な機会を提供していく教育、っていう方針はすでに推進されようとしている。そうであるのに財務省とかあの辺の問題によって、難しいですけれども、考えてる人は考えてる。まあ、考えてない人は、財務大臣とかね、いますけどね。

 

質問者  質問というか、昔、10年ほど前までこの吹田に自主夜間中学があったというふうに聞いているんですが、もしその辺のところ、ご存知でしたら教えてください。

友岡  ええと、自主夜間中学はあったと聞いてます。でも、具体的にどのにあったかは知らなくて、で、自主夜間は先ほどあった2年前の年末の法律で、また、その前の国会での文科大臣の発言で、県で、都道府県で最低一個ずつの夜間中学校を作るというのは文科省の方針で出ました。ただし、誰が作るかというと、国立夜間中学というのはないんで、市町村なんですよね。市町村としてどう作るか。僕の知っているところでは、川口の自主夜間中学はどうも公の、川口市の運営になりそうです。それは、やっぱり行政を動かさんとあかんかな。で、沖縄の自主夜間があるんですけども残念ながら、これは逆に沖縄県として作るからもう自主夜間、いらんやろ。そういう雰囲気もあったりして。今まで、自主夜間やったのが、公立ができるから自主夜間はいらんやろ、となる雰囲気の中で、市民は、もっと夜間中学を公設で作ると言ったのを、そんないっぱいでけへんから、自主夜間を認めろ、というふうな応援をしていただいたら、なくなるとしても良い方向に動くのではないかな、というふうに思います。で、先ほどの前川喜平さんは、厚木えんぴつの会という、厚木の自主夜間中学校に毎週教えに行ったはります。で、神奈川県は残念ながら4つあった、横浜に4つあった夜間中学校が1校になって、自主夜間が2校。ただ、例えば鶴見の自主夜間はちょっと存続が危ういかな、という問題もあって。やっぱり市民の誰もが、もっと関心を持ってちょっとでも協力しあったら、いろんなものが、もうちょっと、押し上げられていくかなと思います。